一度に一枚の絵で世界を見せる

私の息子は絵を描くことが大好きです。
彼の付き添いがあったおかげで、今夜、小さな町で開催されているラズベリーフェスティバル(urbansketchers.org) に合わせたアーバンスケッチンググループに参加する勇気が持てました。

到着すると、主催者が無料の小さなスケッチブックと鉛筆を渡してくれました。

ミネソタの夏は日照時間が長く、夜9時近くまで明るいです。私たちは午後5時頃に着き、招待されたアーティストが目の前の景色を描くデモンストレーションをしているのを見ました。ブロックの角には、鐘と時計のある小さな塔があります。アーティストが和紙に水彩を塗ると、まるで魔法のように、黒い線で描かれたスケッチが一気に美しい色をまとって命を吹き込まれました。

息子は「絵を描いている人々」をたくさん描いています。私は初心者なので、アーティストを観察し、彼から学び描く自信がつくまで待っていました。

アーティストがどのように構図を決め、色を置くのかを見るのはとても参考になります。

彼がほぼ描き終えた頃、私はシンプルなボールペンを使って、木や時計塔、街灯、建物の輪郭を描き始めました。

午後7時頃、主催者が次の場所へ移動するよう声をかけました。描く対象は、通りの真ん中に置かれた古いアンティークカーか、大きなラズベリーの像です。

 息子と私はその2つの場所へ歩いて行きましたが、ちょうど夕食の時間でお腹が空いていたので、近くのチェーン店に行き、ブリトーを食べました。

アーバンスケッチャーズは2007年に始まった非営利団体で、世界中に広がり、人々がその場で見たものや暮らしを直接描くことを奨励しています。そしてその絵はオンラインで公開され、時と場所の記録となります。画材やスタイルは自由で、参加者同士が支え合い、一緒に描きます。彼らは「一度に一枚の絵で世界を見せる」のです。

私はこれが、自分たちの生活の出来事を語り合う五時通信のグループとよく似ていると感じます。こうしてお互いの人生を共に喜び、感謝できるのです。

みなさんとご一緒に書くことができるのは、本当に幸い祝福です。

My Son loves to draw. His companion gave me courage to go to join the Urban sketching group this evening in the small town hosting the Raspberry Festival. 

When we arrive, the organizer gives us a free small sketch book and a pencil.

The summer in Minnesota has long hours of daylight almost till 9 PM. We arrived around 5 pm and saw the invited artist demonstrating to draw the scenery in front of us. There’s a small tower with bells and clock in the corner on the block. It’s like magic when the artist paints water color on the rice paper. The sketch with the black lines suddenly turns to life with pretty color.

My son is drawing a lot of people who are drawing. And I am a beginner so I watch the artist and wait until I feel comfortable to learn from him and draw. 

It helps to see how the artist composes his painting and applied color.

When he is almost finished, I start to use a simple ball point pen to outline the tree, clock tower, street light and building.

Around 7pm, the organizer asks people to move to the next spots, either the old antique car sitting in the middle of the street or the statue of a huge raspberry for more drawing.

My son and I walk to the two locations but I felt hungry for dinner time. So, we went to a nearby chain store for burritos. 

Urbain Skechers is a non profit organization starting in 2007. It became a world wide group for encouraging people to draw their direct observation on their location and life. And people get to see online for the record of time and place. Any media or individual styles are welcomed. The participants support each other and draw together. Together they show the world one drawing at a time.

I feel this is like our writing group here at 5pm for telling people what we are doing in life. So we can appreciate our lives together.

What a blessing I am with you all.

 

あなたの本当のアイデンティティが回復される方法

 

あなたは母の胎の中で霊とともに織りなされました。
その霊は神によって創られ、あなたのアイデンティティがそこに埋め込まれました。
しかし、この世に肉体をもって生まれた後、
霊は物質世界の中で働きながらも、光のない灯火のように暗くなっていきます。
あなたの霊が目覚めるのは、
聖書の真理に耳を傾け、聖霊によって啓かれるときです。

 

油が注がれ、聖霊の火があなたの灯火に点火されるように、
この世の価値観によって形づくられていたあなたの心は、
見えないものを見るために啓かれるのです。

 そして、心は真理によって揺さぶられ、内なる混乱を認め告白します。
魂が真理の源であるイエス・キリストと出会うとき、
あなたの意志は、信じてきた偽りを悔い改めます。

こうして魂は本来のアイデンティティに従って生まれさせ、
聖霊によって変えられ、
目覚めて新たに生まれた霊を通して、救い主への信仰によって生きるのです。

これが、あなたの本当のアイデンティティの回復です。
それは心によってでも、肉体の変化によってでもなく、
霊によってなされるものです。

あなたは生きるのです。
自由に、そして豊かに。

ところが、あることが起こったのです。生まれる前から、私をご自分のものとして選んでおられた神様が、驚くべき愛と恵みをもって、私に声をかけてくださったのです。(ガラテヤ人への手紙 1:15)

夏の夜のテント

暑い夏の日に麦茶を沸かすと、いつも日本の友人たちが家でしていることを思い出します。

今年の夏は特に暑く、我が家にはエアコンがないので、動かなくてもサウナにいるように汗が噴き出してきます。台湾の蒸し暑い気候に似ていて、体のデトックスには良いとも言われますが、それでも夜は涼しくならないとなかなか寝付けない。

そんなある日、気温が華氏102度(約39度)まで上がった夜に、夫に頼んで裏庭にキャンプ用テントを張ってもらいました。

涼しい夜風の中で眠れることにほっとしていたそのとき、キーンという高い音が聞こえてきました。まるで機械のような、でも生き生きとした不思議な音でした。すぐ隣の家のセンサーライトが、何かの動きでパッと点灯しました。

私たちは好奇心に駆られて、テントの網戸越しに中から覗くと、通りすがりのアライグマが立ち止まって私たちを見つめていた。すると、1匹のアライグマが立ち止まり、じっとこちらを見つめていました。まるでビー玉のように輝く丸くて大きな目。私たちはその瞬間、息をひそめて動けなくなりました。野生動物とのこんなに近い出会いに驚き、ただただ見つめていました。やがて、少し離れたところにいたもう1匹が動き出すと、そのアライグマもゆっくりと歩き出していきました。

アライグマたちは、あの不思議な音を立てながら楽しそうに過ごしていたようです。まるで彼らも涼しい夜のひとときを、おやつでも食べながら楽しんでいたのかもしれません。

夜中、雨が降り始めました。私はわざわざ暑い部屋に戻りたくなかったので、そのままテントの中で、屋根に落ちる雨音に耳を傾けていました。でもすぐに、脚に涼しい雫が落ちてきました。ああ、テントが破れていたのを忘れていたんです。

朝方の4時ごろ、聞いたことのない鳥の歌声が聞こえてきました。それはただの鳴き声ではなく、長く美しい旋律をもった歌でした。私は、その鳥が夜明け前の静けさの中で、創造主なる神に賛美の歌を捧げているのだと感じました。

やがて空が明るくなり、ほかの鳥たちも鳴き始めました。彼らのさえずりは、まるで自然の目覚まし時計のようです。新しい一日が始まったのです。

私もその鳥たちのように、毎朝目覚めたときに歌いたい。創造主である神様に、心からの音楽と賛美をささげながら。

ああ神よ。賛美が私の口からあふれてきます。心から喜んで、あなたへの歌をささげましょう。十弦の琴と竪琴よ、目覚めなさい。共々に歌って、夜明けを迎えようではないか。 私は世界のどこでも、主をたたえます。あなたの恵みは測り知れず、その真実は天にまで達します。ご栄光は、大空を突き抜くようにそびえています。(詩篇108:1-5)

カフェに書く

ドッグウッドという名前のカフェに座っている。
壁に取り付けられたデスクライトの下、小さなテーブルにいる。ライトのすぐ下には電源コンセントがあり、パソコンの充電にぴったりだ。

インドのスパイス、ジンジャー、シナモンが香るチャイラテを横に置き、耳元では「恐れるな。ただ信じなさい」という讃美歌が静かに流れている。今日の午後は、まるでイエス様と私だけのもののように感じる。

最近、日本語のポッドキャストで「なぜ多くの人がカフェでパソコン作業をするのか」という話を聞いた。背景のホワイトノイズが左脳の緊張を緩めて、右脳が自由に創造力を発揮できるようになるのだそうだ――論理や理由に縛られずに。

私はよく「必要なものが全部そろっているから」と思って家で書くことがある。でも、家では皿洗いや料理、日本のドラマなど、気を取られることが多い。

今日は、書くことについて書かれた本を持ってきた。著者は、家を持たない80歳の女性について紹介していた。その女性はあちこち旅をしながら、友人や家族の家に泊まり、どこでも執筆して、小説や詩、短編を発表している。新しい場所に着くと、「安いタイプライターはどこで手に入るか」と聞き、しばらく使った後、次の場所へ行く前にそれを売って、持ち運びの負担から解放されるという。なんて自由な生き方だろう。それに、その年齢でまだ執筆を続けているなんて、本当に励まされる。

周りのカフェはにぎわっている。若者からお年寄りまで、友達と来た人や一人の人もいる。コーヒーやペストリーを買いに出入りしている。誰も沈んだ顔や眠そうな様子ではない。カフェインのおかげかもしれない。あるいは、インターネットの画像ではなく、そばで呼吸している本物の人々に囲まれているからかもしれない。

ああ、これが今、私がこのカフェで感じている自由なのだ。

Sitting in a coffee shop called Dogwood.
I’m at a small table, beneath a desk light mounted on the wall. There’s a power outlet just below the lamp—perfect for charging my computer.

With a chai latte by my side—rich with Indian spices, ginger, and cinnamon—and a Christian hymn playing softly in my ear, “Fear Not, Believe Only”, this afternoon feels like it belongs to just me and Jesus.

I recently listened to a Japanese podcast about why so many people enjoy working on their computers in coffee shops. The background white noise seems to help release the left brain, allowing the right brain to create freely—unbound by logic or reason.

Sometimes I write at home, thinking I’ll be more efficient because everything I need is within reach. But home can be full of distractions—dishes to wash, food to cook, or even a tempting Japanese drama.

Today, I brought along a book about writing. The author mentioned an 80-year-old woman who doesn’t own a home anymore. She travels from place to place, staying with friends or family, and writes wherever she goes and publishes novels, poems, and short stories. When she comes to a new place, she would ask where she can find an inexpensive typewriter, and uses it for a while, then sells it before moving on, freeing herself from the burden of carrying it. What a liberating way to live—and still be writing at her age! I find that incredibly encouraging.

Around me, the coffee shop is bustling. People come and go—young and old, in pairs or alone—buying coffee and pastries. No one looks gloomy or sleepy. Maybe it’s the caffeine. Or maybe it’s the presence of real people breathing around them, instead of static images on a screen.

Ah, that’s the kind of freedom I feel today—right here, in this coffee shop.

あきらめずにやろう

今日の帰り道、

私は主に向かって喜びを歌う、

信号が一瞬で赤に変わる間に

赤信号まであと1秒。

神の平安が、私が神を礼拝するために歌っている間、私を静止させているからだ、

私はブレーキを踏み、すぐに止まった。

すると、横断歩道の向こう側にパトカーがいるのが見えた。

交通違反に対する罰金のトラブルから救ってくれた神に感謝する、

神の平安が私とともにあるからだ。

実は、この平安がまるで、夜の嵐の後に太陽が顔を出すようなものだ。

昨夜、高校生の娘が、ショッピングモールで開催されるのために、24インチ×7インチのビッグイベントのペインティングの件で、彼女は自分のしたことが気に入らなかった悔し泣きしていた。

泣いている娘を見て、私はパニックになった。

そこで、ペインティングを頼むのをあきらめようと思ったが、代わりに店に広告のバナーを印刷した。

しかし、イベントは4日後に行われる。印刷が間に合うとは思えない。

神に懸命に祈った。

今朝、デボーション「砂漠の小川」の物語を読んだ。

最初の文章は、神が私に語りかけているように思えた。

「昨日、あなたは大きな悲しみを経験し、最初の衝動は、希望を打ち砕かれ、絶望に打ちひしがれることだった。」

「しかし、あなたはその誘惑に逆らわなければならない。あなたは戦いの最前線にいるのだから、一瞬でもくじけることは神の利益を危険にさらすことになる。悲しみを甘やかすためにも、このままぐずぐずしてはならない。」

だから私は、学校に行く娘を起こしに部屋に行ったとき、神様に励ましを求めた。

「神様は、私たちがあきらめないようにチャレンジしたいんだと思う。」と娘に言った。

娘は昨夜の悲しみから立ち直ったようで、あきらめずにやると言った。

神様、いつも私を絶望から救い出し、他の人たちにも影響を与えられるよう、強くなることを教えてくださることを感謝します。

たとえ、夜通し泣き明かすことがあっても、

朝には喜びが訪れます。」(詩篇30:5b)

アメリカで旧正月の祝い

旧正月は台湾の一大イベントであり、母がいつもテーブルいっぱいに料理を作り、それぞれに縁起を担いでいたのを思い出しました。例えば、大根を食べるのは幸運を意味し、からし菜を食べるのは長生きを意味する。台湾語でからし菜は長命菜とも呼ばれるため、切らずに丸ごとスライスして豚肉と一緒に茹で、葉が肉汁を吸って甘く美味しくなります。大根や粒あん入りの餅を食べるのは高い成功を意味し、ミカンを食べるのはミカンの音が吉の音に近いことから幸運を意味します。食事で一番おいしいのは魚の丸焼きで、これはその年に余剰が出ることを意味します。魚の中国語の発音は「余」と同じである。そのため、今年は余るということを表すために、わざと全部食べないようにするのです。

台湾では、旧正月は大晦日からランタンフェスティバルまで続く祝日で、通常1週間は団子スープを食べ続けることになる。アメリカに来たばかりの頃は、母に倣って旧正月料理をたくさん作り、子供たちに赤い包みを持たせ、幸運を祈るためにオレンジをベッドの枕頭のそばに置いたものだ。しかし、旧正月は旧暦に基づいているため、アメリカでは通常休日とはならず、ここ数年は子供の世話と家事に追われていて、旧正月を祝う準備をしなかった。

今年、娘が18歳になり、台湾の伝統に感謝しているようなので、今年は旧正月料理を作ってお祝いしてほしいと頼まれた。

娘の言葉に私は興奮した。そこで私はアジア系スーパーに買い物に行った。アメリカのスーパーマーケットで売られているような頭と尻尾だけの切り身ではなく、丸ごとの魚を買う必要があると思ったからだ。

アジアン・スーパーの魚は冷凍されていました。私は中国語も英語もあまり話せない店員にその魚を指差し、店員さんが氷の下から魚を掘り出した。この魚は他の魚より3倍も安いのだが、私は他の魚種を知らない。しかし、サバヒーがとても美味しく、魚油が多いが棘も多く、台湾の両親が好んで食べる魚であることは知っている。だから喜んで買った。

調理を始めると、台湾ではお店がやってくれるはずの鱗取りも掃除もされていない、本当に丸ごとの魚であることに気づいた。調理前の魚の下処理は、解剖の授業となった。まず鱗を削るところから始めたが、鱗があちこちに飛び散り、次に魚を胃から切り開き、眉毛を引っ張る道具で大きな棘を慎重に抜き取り、魚の頭もきれいにすべきかと考え、魚のエラの部分に指を突っ込んでエラと脳みそのようなものを取り出した。

その後、ネットで魚の揚げ方を調べると、まず熱したフライパンに皮を下にして魚を並べ、腹を白くしてひっくり返し、5分ほど焼き、きつね色になったら火を止めました。

その夜、魚を食べるとき、私は子供たちにその意味を教えた。子供たちは猫のように慎重に魚のトゲを摘み取り、もしアメリカ人向けに食べるのであれば、トゲが喉に刺さらないように保険をかけておく必要があるだろう。

故郷の文化がアメリカの子供たちに受け継がれることをとても嬉しく思いました。

 

エデンの園で働くのイブ

「この女性は、旧約聖書に出てくるエデンの園で働くイブに似ている」 ユーチューブで彼女の動画を見たとき、私はそう思った。

動画や料理のアイデアを探していると、中国の山の上に住むこの中国人の女性を思い出した。彼女はおばあさんと二人暮らしで、農業を営んでいます。彼女が様々な種を植え、たくさんの種類の野菜を育てていることに驚かされます。彼女はまた、かいこの絹や羊の毛で服を作ります。

彼女のビデオ撮影には何日も、何カ月もかかった。しかし、彼女が最終的に編集したビデオでは、観客は一瞬ですべての成長を見ることができます。

彼女の勤勉さと創造性から、自分の住んでいる場所にある多くのものを有効活用します。彼女の生き方を見ていると、私も夢を描き、それを実行に移そうになります。

というわけで、コロッケが食べたくなったので、今夜の夕食とします。普段はレシピを使わないんだ。冷蔵庫にあるものを何でも使います。
柔らかい白豆をつぶして牛のひき肉と混ぜ、私の好きな香辛料を何種類も加え、ほうれん草のみじん切りも加えた。パティはきつね色に揚げる。家族のために多めに作ったので、待ちきれずに台所でサクサクになったところで食べてしまった。

興味のある方は彼女のチャンネルをご覧ください。

https://www.youtube.com/@cnliziqi/featured

自分の時間

午後5時は、いつも私が家族の夕食を準備する時間だ。

今夜は、夫はバイブルスタディ・フェローシップへ、息子はメンターシップのために教会へ、娘はクリスマスクッキーを焼くために友人宅へ行った。

私は自分のための静かな時間を楽しんだ。

何でも食べられるので、準備にあまり時間をかけずに、私の夕食は、朝から洗って外に出しておいたレタスと、昼から炒めてストーブの上に置いておいた豆腐、それに店の袋にあったライ麦パンを加えたものだ。

何時間も部屋に置いておくと、食材が腐ってしまうのでしょうか?

なぜなら、私の家の温度は摂氏15度で、外は華氏15度、つまり、氷点下9度である。 

冬の高い暖房費を節約するため、室温は低めにしている。

 

冷たい夕食を食べた後、熱いチャイラテを飲むと手と胃が温まりました。

そこで、シナモン、ジンジャー、レモンピール、ナツメグ、クローブ、カルダモンが入ったパンプキンスパイスを加え、豆乳でホットチャイラテを作った。

なぜパンプキン・スパイスと呼ばれるのか?パンプキン・スパイスは感謝祭のパンプキン・パイによく使われる。アメリカの冬のクリスマスの味だ。

 

夕食は退屈に聞こえますか?そんなことはない。私は心から満足し、寒さをしのげる家、食べるもの、帰宅を期待できる家族を与えてくれた神に感謝する。

以前は自分に欠けているものによく文句を言っていた。でも今は、自分が持っているものに集中することを学び、その結果、神に感謝する価値のあるものをより多く見つけることができ、私の心は人生をより楽しむことができるようになった。

パウロがイエスを信じたために牢獄に入れられたとき、聖書の中でこう言ったように、

「無一文の時にも、何でもそろっている時にも、どのように生活すべきか知っています。満腹の時にも空腹の時にも、豊かな時にも貧しい時にも、どんな境遇でも満足する秘訣を身につけました。」(ピリピ人の手紙4:12)

 

もっと、私は南国の島、台湾で育った。当初はミネソタの寒い冬を恐れていました。しかし、イエスへの信仰が強くなるにつれ、私の心は恐怖に打ち勝つ強くなりました。私の人生は、聖書に書かれていることが真実であることを証明している。

「力を与え、強めてくださる方によって、私は、神に求められるどんなことでもできるからです。」

(ピリピ人の手紙 4:13)

後悔のとき、どうしますか

あなたには「あのときこうしなければよかった」という後悔はありますか?

最近、NHKが制作したドラマ「3000万」を観ました。このドラマは、人間の心が試されて罪を犯し、罪を隠そうとしてさらに罪を重ね、ひとつの嘘が別の嘘を呼び、滑り台を滑り落ちるように後悔の地獄に陥っていく様子を描いています。

物語は、小学生の息子を車に乗せて帰宅途中の夫婦が、路地から飛び出してきたバイクと衝突してしまうところから始まります。夫婦が車から降りて確認している間に、そのバイクの運転手がこっそりと夫婦の車に乗り込み、車ごと息子を連れ去ってしまいました。焦った夫婦がその車を追いかけると、前方の車がスピードを失い、ガードレールに衝突しました。夫婦は善意で救急車を呼び、そのバイクの運転手を病院に送りました。しかし家に帰ると、息子がその運転手の所持していた多額の現金を盗み出していたことに気付きます。母親は息子を叱り、そのお金を持ち帰らないように説教しますが、息子はそのお金を両親に渡します。
しかし、経済的に困窮していた夫婦は、その予期せぬ大金に心を動かされ、そのまま手元に置くことを正当化してしまいます。そのお金で息子がずっと夢見ていたグランドピアノを購入し、夫婦は息子がピアノを楽しそうに弾く姿を満足げに見つめ、しばし自分たちの罪を忘れてしまいます。

ところが、そのお金は犯罪組織が貯金を自宅に保管していた老人から奪ったものでした。これにより夫婦は罪人に追われることになり、不安と葛藤の日々が始まります。そして、犯罪者が夫婦の家に押しかけ、警察に通報すれば息子を誘拐すると脅します。子どもを愛してやまない妻は、もうお金なんていらない、子どもを失いたくないと思いますが、それでも罪を認めて刑務所に入ることは避けたいと思い、当時夫の言うことを聞いてそのお金を受け入れたことを悔やみます。そして息子が泣きながら「あのときお金なんて取らなければよかったのに」と言うのを聞いて、母親も過去に戻れないことを悔やむのです。

この話を観て、私も自分の後悔について考えました。たとえば、子どもの頃、母に偉そうなことを言って傷つけてしまったこと、上司や先生に対して失礼な態度を取ったことなどです。昨年、二十年以上前に台湾で働いていた会社の友人が連絡をくれました。彼女は台湾の教会から派遣されてロサンゼルスで宣教師として活動しており、彼女が所属するオンライン教会のグループに私を誘ってくれました。友人に会えるのは嬉しいと思いましたが、教会に参加することには少し躊躇がありました。彼女は私のために『神と出会う』祈りをしてくれました。その祈りの中で、なぜ私が教会のリーダーに不信感を持っているのか、その理由を思い出す助けをしてくれました。

封印されていた記憶が、聖霊の導きの中で開かれたようでした。小学生の頃、私はクラスで上位の成績を取る生徒でした。テストで100点を取らなくても90点以上が普通でした。しかし、当時の風潮では、教師が鞭で生徒を指導することが許されていました。教師は私たちを勉強させるため、100点に満たない分だけ鞭打つというルールを設けていました。私はあまり打たれることはありませんでしたが、テストの結果を受け取るために前に出て鞭打たれる前の恐怖、そして鞭打たれた後の手の熱さや痺れをはっきり覚えています。当時は、同じ境遇にある同級生と苦しみを分かち合いながら、薄荷オイルを手のひらに塗って鞭打ちの痛みを軽減するそうだ。しかし実際には、それでもまた熱く痛かったのです。

この出来事を思い出すと、私はそれ以来、権威を持つ人々、さらには政府に対して恐れを抱くようになったことに気付きました

その後、友人が私に尋ねました。「そのとき、主イエスはどこにいましたか?」と。私は「そのとき、主イエスはそこにいなかったと思います。私は当時まだ信仰を持っていなかったからです」と答えました。すると友人は「主イエスをそのときの場面に招き入れることはできますか?」と聞きました。主イエスは神であり、時空を超越している神です。私はその想像を神に委ねました。すると、心の中で主イエスが私の小学校の教室に戻り、私のそばにいて、私を守ってくださっている光景が見えました。主の光が私を怯えさせる場面を追い払い、私は平安を感じました。

この「神と出会う」祈りは、私を自分の後悔の瞬間に立ち戻らせ、どんな過ちを犯したとしても、主イエスに「ごめんなさい。助けてください」と告白すると助けてくれました。そして、主が私を許してくださる愛と平安が私の心に満ち溢れました。

聖書の箴言14章18節にはこうあります。「心に病のある者はその痛みを忍ぶことができるが、心が打ち砕かれた者を誰が支えられるだろうか」。私は心の中の後悔が埋め合わせできない痛みとなることを深く理解しています。何度も積み重なる悲しみは人を押しつぶします。だからこそ、私たちは私たちの弱さを知る天の父なる神のもとに行く必要があります。

「主は恵み深く、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみ豊かである」(詩篇145:8)。私たちが後悔して受けるべき刑罰を、主イエスが十字架の上で代わりに背負ってくださいました。私たちが主を信じるなら、すべての後悔は過ぎ去ります。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しい創造である。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」(コリントの信徒への手紙二 5:17)。

<終>

言語を学ぶことで脳を活性化するのはよいです

「YouTubeで渡辺杏の番組を見て、Duolingoというアプリを紹介していました。現在フランスのパリに住んでいる杏は、このアプリを使ってフランス語を学んでおり、かなり効果的のようです。読書好きな杏は、3年半以上もDuolingoで言語学習を続けています。番組の中で、杏は旧友の大倉真一郎を招き、Duolingoについて話し合いました。大倉さんは、最初娘が韓国語を学んでいるのを見て、友人が1年で流暢に話せるようになったと自慢するのを聞き、自分も中国語を独学することに興味を持つようになりました。

杏の番組はとても説得力がありました。私は以前Duolingoを使ったことがありましたが、最初が簡単すぎて挑戦のしがいがなくなり、途中でやめてしまいました。しかし、杏の番組を見て、もう一度インターネットでアプリをダウンロードして試してみました。相変わらず非常に簡単な問題から始まりますが、毎日数分間遊ぶことを決めたので、どんなに簡単な問題でも、もっと早く答えることに挑戦しようと思うようになりました。これも一つの学習方法かもしれません。そうして数日間続けてみると、認知症の予防になるのかもしれないと思いました。

若い頃は、何をするにも「なぜこれをするのか?」と自分に問いかけていました。それが仕事や将来に役立つかどうかを考え、役に立たないなら、お金や時間を無駄にしない方が良いと思っていました。生活は生産的でなければならない、効率的で生産性があるべきだと考えていました。しかし、中年になると人生に対する見方が変わり、毎日目覚めてご飯を作ったり、散歩したりできること自体がボーナスだと感じるようになりました。やりたいことがあるというのは一種の恩恵であり、それは神様からの贈り物だと感じるようになりました。

学校の試験のためでもなく、親の期待のためでもない。そう思うようになってから日本語の勉強を始めました。今後日本に住むかどうかはわかりませんが、今この言語を使って『五時通信』に文章を書いたり、日本の友達と文通のようなやり取りをしたりすることが楽しいです。娘が私に届いた日本からの封筒を見て「お母さんはすごい」と言い、切手を取っておいて欲しいと言いました。彼女は海の向こう側の人と交流できることを不思議に思い、とても素晴らしいことだと感じています。

時々、自分の書いたものをコンピュータAIで日本語に翻訳すると、全く違う感じがします。まるで言語そのものが友達の声のようで、友達が話しているかのように感じるのです。日本語には私にとってそんな魅力があります。

幼い頃、日本の教育を受けた祖母が日本の歌を歌ってくれて、聞いているうちに感情が生まれました。これが他の言語よりも日本語を学ぶことが好きな理由かもしれません。家族の叔父やいとこも日本に留学しており、日本語を非常に上手に話します。

いつか日本に長く住むことができれば、日本語は飛躍的に上達するだろうと夢見ています。どれくらい続けられるかはわかりませんが、とりあえずDuolingoを使って知っている日本語の単語をたくさん復習し、友達と普通に会話ができるようになるまで頑張りたいと思います。

人生は四季のように移り変わり、季節ごとに異なる感覚があります。四季が人の力でコントロールできないのと同じように、人生の季節もそうです。

最近聖書の教えで目覚めたのは、「何事にも定まった時があります……神のすることは一点の非の打ちどころもなく、何一つ付け加えたり、取り除いたりすることはできません。神はこのことを通して、人が全能の神を恐れるようにと願っているのです。……自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはないと判断したのです。これが人間が地上にいる理由です。未来に起こることを楽しむことはできないのですから、今のうちに人生を十分に楽しむことです。」と言いました。(伝道者の書3)

毎日、イエスキリストに生活を楽しむことを探して感謝しています。

學習語言讓頭腦活化

在Youtube上看了渡邊杏的節目,介紹Duolingo這個app,現在住在法國巴黎的杏,用這個app來學法文,似乎相當有效,愛讀書的杏也持續用Duolingo學語言學了三年半以上。

在節目中,她找來老友大倉真一郎談論Duolingo。大倉先生一開始看到女兒學韓文,旁邊的朋友誇耀說一年就可以說得很流利,因此也啟發他的興趣自學中文。

杏的節目很有說服力,我以前雖然用過Duolingo,但是因為一開始太簡單而失去挑戰而終止。現在看完杏的節目後,又上網下載來試試看。仍然是從非常簡單的題目開始,但是決定每天要花個幾分鐘玩下去以後,不管題目多簡單,就想著挑戰自己回答快一點,好像也是另一種學習的方式。就這樣,持續了幾天後,好像能訓練自己不要老年痴呆吧。

年輕時,做什麼都要問自己為什麼要做?是不是對自己的工作或將來有好處?好像沒好處就不需要浪費金錢或時間去做,生活就是要be productive,有效率有生產力。但是中年後,面對人生有另一種看法,每天能夠起床、煮飯、散步,都是加分bonus。體會到人生有想做的心願,就是一種恩典,是上帝給的禮物。既不是為了學校的考試,也不是為了父母的期望。這樣想以後,開始學日文,雖然以後不知道會不會搬去日本住,都不用太擔心,現在能用這個語言在五時通信上寫作,跟在日本的朋友像筆友一樣交流,叫我很開心。我的女兒看到我收到從日本來的信封,她說我很酷,還要我把日本郵票留下來給她,她覺得能跟海洋另一邊的人交流,是多麼奇妙的事。

有時看自己寫的東西用電腦AI翻譯成日文,感覺很不一樣,好像語言本身是一個朋友的聲音,從朋友口中說出來的話,給我不同的感受。日文對我而言就有這種魅力。

小時候,受過日本教育的外婆會唱日文歌給我聽,聽著聽著就有了感情。這大概是我喜歡學日文,勝過其他語言的原因。家族裡的舅舅和表弟,也都留學過日本,日文說得想當好。

我夢想有一天如果能長久住在日本,日文應該會突飛猛進吧。

不知道能繼續多少時候,但是決定先繼續用Duolingo把已經會的日文單字多多複習一下,希望能熟練到跟朋友聊天的程度吧。